2014年5月5日月曜日

天王寺村鋳銭所跡

堺筋から見て黒門市場の裏手に、黒門公園という小さな公園があります。
先月、所用で通りがかった際に、美しく咲く桜の花に目を奪われ、しばらくぼーっと眺めていました。
ふと木の下を見ると「天王寺村鋳銭所跡」と記された碑が立っていました。

比較的新しい碑だなと思い裏に回ってみると、平成16年3月に建立されたと記されていました。

並んで説明の看板も建てられていましたので、それを書き起こしてみます。
「江戸時代、このあたりは天王寺村といい、銅銭をつくる工場(鋳銭所)がありました。寛保元年(1741)に、大坂の銀鋳造工場の幹部(銀座年寄)であった商人の徳倉長右衛門と平野六郎兵衛が、幕府の許可を受けてつくったものです。その頃の大坂には、今の淀川区の加島と中央区の難波にも銭の工場があったため、こちらの工場は、天王寺村銭座と呼ばれていました。敷地は約3万6千平方メートルあり、周囲は塀と堀で厳重に囲われていました。多い時には年間20万貫(約2億枚)の寛永通宝をつくったといいます。しかし、工場の支配人の不正などがあったため、営業がうまくいかなくなり、延享2年(1745)には操業をやめました。その跡地には、宝暦2年(1752)に、幕府によって天王寺御蔵(高津御蔵)という倉庫が建てられました。これは道頓堀から高津堀川を通って米を運び、蓄えておくための大きな貯蔵庫でした。寛政3年(1791)に、天王寺御蔵が難波に移転した後は、民間の土地となり、町屋が立ち並びました。  大阪市教育委員会
説明看板に記された地図によると、天王寺村鋳銭所が実際にあった場所は、この碑よりも少し南東の一帯だったようです。

多い時には年間2億枚の銅銭がここで鋳造されていたとのことですが、多いのか少ないのかいまいちピンときません。
寛保は暴れん坊将軍の徳川吉宗の治世。
天王寺村鋳銭所を題材にした書籍資料などあれば読んでみたいと探しましたがまったく見当たりませんでした。
どうも、この鋳銭所が操業していた年数の短さ(1741年~1745年)が関係しているようです。
どういう切り口から探ってみようかとウダウダ考えているうちに桜の季節も終わり、鯉のぼりの時期になってやっと見つかりました。
滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』に、ほんの2~3ページですが天王寺村鋳銭所のことが記されていました。
その内容をご紹介する前に、江戸の貨幣の基礎知識を少し書かせて頂きます。

まず、江戸時代の貨幣は大別して金貨・銀貨・銅貨の三種類だということはご存知だと思います。
ただ、ややこしいのはこの三種の貨幣の単位が違うこと。
金貨の単位は、両・分・朱の3通りで、しかも四進法でした。
つまり、1両=4分、1分=4朱ということです。
この単位にもとづいて金貨が作られるのですが、その種類が、大判(10両)・小判(1両)・二分金・一分金・二朱金・一朱金でした。
銀貨の単位は、貫・匁(もんめ)・分・厘・毛です。
1貫=1000匁で、それ以下は十進法でした。
銀貨には丁銀・小玉銀などがあり、それらを組み合わせて秤にかけ、重量で使用していました。それを秤量貨幣と呼ぶそうです。したがって、銀貨は小さく切り分けて使うこともできたのです。
そして銅貨。
単位は貫と文。
1貫=1000文でした。
江戸初期には、明国からの輸入銭である永楽通宝が使用されていましたが、この天王寺村鋳銭所でも鋳造されていた寛永通宝が大量に流通し始めると、次第にこれに統一されたようです。

江戸時代は、領主が農民から農業生産物を年貢として徴収する封建社会だったことはご存知のことと思います。
しかし、別の特徴として、統一国家として全国共通の貨幣制度が施行され、商品の生産流通が広範囲に展開した社会でもあったのです。
よって、支配層にとっては、米価や物価の問題、そして貨幣改鋳の問題が悩みの種となるのです。
支配層が、米価の変動に振り回される様は江戸時代の話につき物ですが、支出の増大も大きな不安定要因でした。
そのことに対処すべく、幕府は金貨銀貨の改鋳を手段とするのですが、これが物価の高騰を招くなどの問題を生じさせたのです。
金貨銀貨を改鋳し、質を低下させることによって、名目的に量を増加させ収入を増やすことを考えたのですが、金貨銀貨の質を落とせば当然銅貨の価値が上がります。
時に銅貨の相場が高騰し、銭で生活をする下級武士や一般庶民の生活を圧迫する結果ももたらしました。
そこで、銅貨の鋳造が活発になっていくわけですが、この天王寺村鋳銭所もそんな時代の流れの中に誕生したのです。

大雑把ですが、金貨と銀貨の鋳造は幕府のみが行い、銅貨に関しては許可を得た民間業者が行う仕組みだったようです。
滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』によれば、天王寺村鋳銭所も、京都銀座年寄の徳倉長右衛門と江戸銀座年寄の尾本吉右衛門の両名が元文3年に願い出て、寛保元年にようやく許可され鋳造が始まったそうです。
大阪市教育委員会の説明看板に記されていた「堀と塀に厳重に囲われ」の部分も滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』に詳しく書かれています。
四方を竹垣で囲い、その内に堀をかまえ、さらにしのび返しをつけた塀をたてて、二重に囲い込み、門は一方口であった。滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』より
そして、天王寺村鋳銭所が操業を止める原因となった不正に関しても触れられています。
どうも、許可を得た徳倉・尾本の名代でこの天王寺村鋳銭所の管理を任されていた者が、遊蕩と米相場に手を出し、幕府から借りていた金子より8500両を使い込み、さらにその他の役職者までが身分不相応な振る舞いをして、2万両ほどの欠損を出してしまったようです。
その責任をとり、尾本は切腹、徳倉は出家、そして両家は身分を召し上げられたそうです。
その名代の遊蕩については
「新町備前屋の万大夫を金八百両にて請出し、船場高麗橋辺の貸座敷に入置て妾となし、召仕ひのもの十人余り付置き、日夜舞台子又は芸子・たいこ持ちを集め、酒宴遊楽に長じ」滝沢武雄著『日本の貨幣の歴史』より
と豪奢な有様だったようです。
鋳銭所の利益がいかに莫大だったかを物語っていますね。

天王寺村鋳銭所で鋳造された銅貨は、裏面に「元」の字があるのが特徴だそうです。

黒門公園で偶然出会った天王寺村鋳銭所跡の碑。
おかげで、大阪らしい銭の話をひとつ知ることができました。

中央区日本橋2-12 黒門公園内

2013年12月13日金曜日

ミナミの筋と通と旧町名

「心斎橋筋の手前って畳屋筋?笠屋筋?」
お客様との会話から始まった筋と通の話。
ミナミを仕事場としておきながら、瞬時に答えられなかった事がとても悔やまれ、復習のつもりで描いてみました。


諸説あるようですし、同じ筋で複数の名を持つ場合もありますが、オーソドックスかと思われる筋と通の名をざっくりと描けばこのようになると思います。

こうやって描いてみると、疑問が出てきます。
なぜこの名なのか?
なぜ東西方向の道なのに「筋」なのか?
少し調べてみますと、さすがミナミですね。
資料が山のように存在します。
その山の中から「これだ!」という真実を追究するのはさすがに諦め、徒然と面白そうなのをチョイスしてみました。

まずは、筋と通の名です。
江戸時代まで遡ってみます。


宮本又次著「心斎橋由来記」より
なんと細かい!
ですが、町名を聞けばそのエリアがどういった雰囲気なのか判り易いですね。
例えば、心斎橋筋は錺屋(かざりや)町、木挽町、菊屋町から成り立っていたそうです。
錺屋は金物細工の職人の町だったとわかります。
木挽町も同じく材木を扱う職人の町だったんだろうな~と想像できますね。
菊屋町も菊の花を売る・・・と思ったのですが、どうもこの菊屋とは屋号若しくは商人の名だったようです。
大阪では、その開発者、主だった居住者、町年寄の名号を町名にしたものが多いとか。
玩具の町である松屋町筋は、豪商松屋の居宅が広かったためその名がつき、玉屋筋の玉屋町は玉屋治左衛門より、そして我らが宗右衛門町は山ノ口宗右衛門という町年寄にちなんだと言われています。

この江戸時代の町名が、どのように変化したか?
南区が東区と合併し中央区になる以前のミナミの町名も描いてみました。



現在の島之内地区まで広げた地図です。
ミナミの町名が筋と通の名とほぼ一致しています。
大阪市には「大阪の歴史を掘り起こし、わが街意識を育て、市民と行政ともどもが街の歴史を刻んだ町名を通じて、郷土意識の涵養を図ることを目的として」『旧町名継承碑』というものがおよそ300以上設置されています。
ミナミに存在する『旧町名継承碑』の一部から町名の由来をみてみましょう。

まずは、東清水町。


中央小学校の南側に設置されています。


少し反射で読みづらいですが、ご容赦下さい。

『東清水町』
 当町は明治初期、大坂三郷南組の岩田町・綿袋町の全域および中津町の一部であったが、明治五年三月各町をもって東清水町となった。同十二年二月南区に、同二二年四月市政施行にともない大阪市南区東清水町となった。平成元年二月南区は東区と合併して中央区となり、同日付の住居表示実施にともない新しい心斎橋筋一丁目・東心斎橋一丁目の各一部となった。町名は、「このあたりに麗泉涌出して清水町と名づく」と「摂陽奇観」にもあることに由来し、冠称の「東」はその
清水町の東部に位置することによる。

このように紹介されています。
なんと明治5年から平成元年まで続いた町名だったのですね!
南区と東区が合併し、町名が失われる事にはかなりの反対があったと聞いた事があります。
気持ちはとてもよくわかります。
ですが、最終的にそれを受け入れた当時の南区民・東区民は素晴らしい!
行政の住居表示から旧町名がなくなっても、今も人々の生活には昔からの町名がしっかりと息づいているのですから。
ちょうど、今の大阪も都構想という大きな選択の時を向かえていますが、そういった変化をドンと受け入れる度量がこの街の人々には昔から備わっているのですね。
歴史ある街に代々生きる人々の自信が感じられます。
時代や経済圏が変わり、それに伴い行政区画が変わっても、未だに私たち今に生きる者の会話の中で旧町名が使われているのですから面白いですね。

東清水町からみて北側の鰻谷町。
こちらは現在、鰻谷北通と鰻谷南通が東西に走っています。
鰻谷町の歴史はこちらの鰻谷商店街HPにわかりやすく紹介されています。
鰻谷の歴史 鰻谷商店街
こちらの解説によれば『慶長14年の三津村検地帳に「おなぎだに」の名が見え』るとのこと。
慶長ですからまだ豊臣氏の大坂城の時代ですね。徳川家康が生きてます。
由緒ある町名ですね。
鰻谷北通には現在「川柳通り」との通称があるそうです。
街路灯には3ヶ月に1度公募により選抜された川柳が掲示されています。
そしてこのマーク。


車止めのポールにも

私はこのウナギのマークをとても気に入っています。
シンプルでどことなくユーモラスでそれでいてオシャレでもある。
海外からの旅行者に感想を聞いてみたいですね。
鰻谷の南北通で旧町名継承碑を探しましたが見つけることができず、東へ移動。
島之内の住友銀行敷地内にある鰻谷東之町の旧町名継承碑を訪ねました。

ここは住友銅吹所の跡地でもあります。


これによると、この島之内一丁目の住居表示実施は昭和57年7月となってます。
東清水町は平成元年でしたから、あちらよりも数年早く町名変更されたのですね。

元来た道を引き返し、堺筋を渡り、今度は笠屋町の旧町名継承碑です。

周防町筋に面し、ちょうどコンビニエンスストア・ポプラの筋を挟んだ向いにありました。

どうも、この旧町名継承碑は光の反射の具合で読みにくくなるようですね。
肉眼でも読み辛かったです。
笠屋町は町名の遍歴が面白い。
道頓堀漆師屋町→傘屋町→笠屋町と変化したそうです。
和傘には漆が使われていた関係からこのような遍歴をたどったとか。
和傘に漆が使用されていたとは、恥ずかしながら初めて知りました。


さて、ここで唐突に「なぜ東西の道なのに筋なのか?」という疑問について。
大阪の道路は、南北が「筋」で、東西が「通」と称するのが一般的だと言われています。
最近では、周防町筋をヨーロッパ通というふうに「通」と呼び変えている場合もありますが、しかし、ここミナミでは東西の道も筋と呼ぶケースの方が多いですね。
それは、例えば「東横堀川」や「西横堀川」のように、南北が「横」と認識されていた歴史が関係しているのではないかと言われています。
要するに、昔の大阪では、東西こそが「縦」であり、表通りだったのです。
私もそうですが、道路を説明する時に自然と「あの筋を~」と表現します。
元来、大阪ではそれほど筋と通の区別が厳密ではなかったのではないでしょうか?
それゆえ、大阪の中でも特に歴史が古いこのミナミでは、表通りであった東西の道路を「~筋」と呼び、その呼称が現在まで残ったのではないかと思われます。
この問題は奥が深そうなので、引き続きじっくり調べていきたいと思います。

最後に、現在のミナミの町名を描いてみました。



見比べてみると、本当にシンプルになりましたね。

追記

今朝、店舗の計測で訪れた宗右衛門町で玉屋町の旧町名継承碑を発見しました。
宗右衛門町2番の南ビルの植え込みの中にひっそりと佇んでいました。

これによると、町名は玉屋治左衛門が居住したことに由来するとのこと記されていました。


2013年11月5日火曜日

東平の神木「末広大明神」

私、御神木を解体する現場を初めて見ました・・・。
中央区の東平と上汐の間を走る道があります。
熊野街道の一本東隣の道です。
そこには道路の真ん中に枯れ木が鎮座しておりました。

鎮座しておりましたと過去形なのは、本日、その木が根こそぎ掘り返され潰されていたからです。
朝、出勤時に近くを通った際、作業員の方々が御神木の周囲で作業をされていたので、剪定の準備かな~とあまり気にも留めませんでした。
ちょっと元気の良い根元の木の枝が道路にはみ出していたので、車の通行に支障があるかなと以前から感じていた事もあり、その枝だけを切るものだと勝手に解釈していました。
ところが、夕方その道を通ったところ、御神木も碑も跡形無く消えておりました・・・。

その木の根元には「末広大明神」と刻まれた碑が建っておりました。
神として祭られた御神木だったのです。

大阪大空襲で焼けたイチョウの枯れ木だったとのこと。
戦災のモニュメントでもあったわけです。

このような道に残る神々の木は大阪市内にところどころあるそうです。
こちらの「末広大明神」からほんの目と鼻の先、直線距離で150mくらいの道路上にも御神木があ
ります。

谷町7丁目の交差点を東に入ってすぐ。
本当に道のど真ん中です。

こちらの御神木は「楠木大明神」と呼ばれ、地元では「谷町のクスノキさん」とも呼ばれているそうです。
この地には元々本照寺というお寺があり、この御神木はその境内に立っていたとのこと。
昭和12年に本照寺は移転してしまったのですが、この木だけは大阪で信仰されている巳さん(「みいさん」:蛇)が棲むとされ、切り倒すことによる祟りを恐れて道路の真ん中に残る事になったそうです。

こちらの御神木も残念ながら枯れてしまい、正確にはその切り株が「楠木大明神」なのです。
この道は「楠木筋」とも呼ばれており、その道に面して建つマンションの名前にも楠木が使われています。

いつもそこにあるものが無くなると形容しがたい物悲しさのような感情が沸くものですね。
「末広大明神」がそこにあるうちに、その歴史を調べておけば良かったと後悔しています。
ここ4~5年でしょうか、この東平と上汐の境は、民家や会社ビルなどがパタパタと取り壊され、投資マンションが一気に増えた気がします。
勝手な想像ですが、「末広大明神」を守り続けていた方がこの地を離れてしまい、守をする人手が無くなったのかも知れませんね。
信仰が無くなれば、神も存在しえなくなるのでしょうか。
古き良きものと新しい芽吹きが同時に存在する事は、なかなか難しいようです。

2013年10月25日金曜日

大利鼎吉遭難之地

谷町7丁目の交差点より谷町筋を北に100mほど歩くと、谷町筋と松屋町筋を東西に走る坂道があります。
丁度、空堀商店街と平行に走るこの坂道は、交通量が少なく、自転車で走るにはとても快適でよく利用しています。
坂道を下りきり松屋町筋を渡ると、横断歩道の脇に碑が建っています。

「贈正五位大利鼎吉遭難之地」


この「贈正五位」というのは、贈位、追贈、追賜という没後に位階を贈る制度によるものだそうです。
明治以降は、尊皇攘夷や明治維新で功績を挙げながら亡くなった人物等に贈られたようです。
碑の北側側面にはこう刻まれています。

大利鼎吉(おおり ていきち)は土佐藩の尊皇の志士であり、この地に潜伏中の慶応元年1月8日、新撰組の兇刃に斃れる。享年24歳。
この大利鼎吉なる人物、土佐藩という事は、坂本龍馬に詳しい方ならご存知なのでしょうか。
新撰組といえば京都というイメージがあるのですが、まさかこの大阪で新撰組の名を見るとは意外な感じがします。
ここで起きた事件を土佐勤皇党 ・坂本龍馬ルートで調べるか、新撰組ルートで調べるか迷いましたが、NHK大河ドラマ「新撰組!」を欠かさず観ていた事もあり、新撰組ルートから調べてみました。

この碑にある殺害事件の名は「善哉(ぜんざい)屋事件」と呼ばれています。
大利鼎吉を斬ったのは、谷三十郎・谷万太郎の谷兄弟他2名。
この谷三十郎・万太郎の弟が近藤勇の養子になる谷周平です。
池田屋事件にも参加したこの兄弟は、新撰組の隊士でありながら大坂の南堀江に道場を開く事を許可されていたという特別扱いを受けていました。
新撰組の大阪支店のような役割だったのかも知れませんね。
岡山県倉敷で「下津井屋事件」を起こし、大阪に逃れてきた和栗吉次郎という人物が、この谷兄弟の道場に転がりこんできたのが元治元年(1864)。
その和栗吉次郎がどのようにして知ったのか、大阪に潜伏する倒幕派の情報を入手し、谷兄弟に知らせた事が事件の発端です。
その倒幕派は土佐脱藩浪士達で、長州征伐のために出陣した幕府軍を混乱させるため、大坂城を焼き討ちし大坂を混乱させた後、上京して佐幕派の大名を討ち取る計画をしていました。
武者小路家家臣の本多大内蔵が、石蔵屋政右衛門と名乗り松屋町筋瓦屋町で経営していた善哉屋「石蔵屋」にその土佐脱藩浪士達は潜伏していました。
事件前、その善哉屋に潜伏していたのが田中光顕、大橋慎三、那須盛馬、そして大利鼎吉だったのです。
慶応元年(1865)1月8日、谷三十郎・万太郎兄弟は正木直太郎と高野十郎の2人の門弟を連れて瓦屋町の善哉屋に向かい、そして事件が起きたのでした。
この日この時、運悪く善哉屋にいたのは大利鼎吉そして本多大内蔵とその家族とされていますが、記録の中には太刀を振るう僧侶もいたとするものもあるそうです。
闘いは相当激しかったようで、新撰組側の記録には、正木直太郎が右腕を四寸ほど斬られ、谷三十郎も足を負傷、谷万太郎は胸元に当身を喰らったとの報告書が残っています。
中には大利鼎吉1人を討ち取るのに4人がかりで1時間も要したという話もあるそうです。
谷兄弟は池田屋事件にも参加し、道場を開くほどの腕前。
それに手傷を負わせてこずらせたというのは、先の太刀を振るう僧侶が現場にいたとしても、大利鼎吉は相当な剣の腕前だったと推測できます。
谷万太郎が近藤勇に送った報告書には「何気なく四人にて入り込み候ところ」と書かれています。
要するにこの善哉屋での斬り合いは、計画的なものではなく偶発的に起きた事件だったようです。

碑の「遭難之地」と記された横に、小さく人物名が刻まれています。


「正二位勲一等田中光顕」
この碑を建てたのか、大利鼎吉への贈位に尽力したのか。
この人物は、善哉屋事件の当日、運良く外出していて難を逃れた田中光顕その人です。
少し調べてみますと、田中光顕は明治新政府で宮廷政治家として大きな勢力を持ち、伯爵という華族にまで列せられ、宮内大臣にまで登りつめたのです。
そして昭和14年に97歳で没するまで明治維新から昭和という激動の時代を生き抜いたのです。
なんという運命なのでしょう・・・。
大利鼎吉は、その日、善哉屋に居たばかりに24歳の若さで「何気なく四人にて入り込み候ところ」の新撰組と激闘の末斬殺され、その日、たまたま善哉屋に居なかった田中光顕は大臣にまで出世し、明治・大正・昭和と生き抜いた。
この碑には、そんな運命のいたずらともいえる2人の記録が刻まれていたのですね。

松屋町筋に立ち碑を見ると、大利鼎吉が死の前日に詠んだとされる歌が刻まれています。

「ちりよりも かろき身なれど 大君に こころばかりは けふ報ゆるなり」

後日、こちらの碑をもう一度よく見てみますと、建立された年月日がちゃんと刻まれていました。

植込みで隠れていたので見落としていました。
昭和十二年二月三日建之
さらに、「奥野伊三郎」「前田重兵衛」と人名が刻まれています。


もうひとつ見落としていました。
こちらの碑の前に「BOW」というヘアサロンがあるのですが、その外壁に碑に関する案内板が設置されていました。
大利鼎吉が土佐勤皇党に入り、靖国神社に祀られるまで詳しく記されています。
こちらを読めばすべて解決でしたね・・・。

碑に刻まれた「奥野伊三郎」氏、「前田重兵衛」氏の名前をインターネットで検索してみますと、「大利鼎吉小伝」の寄与者と出版者としてヒットしました。
さっそくいつものように図書館に漁りに行きますと、書庫にありました。

昭和十二年六月一日に発行されたこちらの伝記は、編纂者が奥野伊三郎氏、発行者が前田重兵衛氏と記されています。
そちらに電話番号もあるのですが、番号の前に「南」や「土佐堀」と記されており交換手が取り次いでいた時代だったのでしょうか。しかも、市内局番が2ケタになっています。
時代を感じますね。

この伝記の中に「建碑に就いて」との一節がありました。
編纂者の奥野伊三郎氏は善哉屋事件の現場近くの生まれだそうです。
少年の頃、よく父から事件のことを「この血なまぐさい大騒動に近隣の人々は慄ひ上つて戸を閉め、誰れ一人表へでるものがなかつたという」と聞かされたのだとか。
これは実際にその現場を知る人でないと語れない臨場感ある話ですね。
松屋町筋の道路拡張工事までは、この事件のあった家屋が当時の姿のまま残っていたそうです。
拡張工事のためにあたりの様相が一変したのを機に、史跡を残そうと親友の前田重兵衛氏と相談し記念碑建設の計画を立てたというのが経緯なのだそうです。
そして、田中光顕伯爵に書翰を呈したところ、碑面の揮毫をして下さったと記されていました。

ちなみに、奥野伊三郎氏の親友にしてこの伝記の発行者である前田重兵衛氏は、この碑と同じ瓦屋町内にある菓子製造会社株式会社前田商店の代表取締役でいらっしゃいます。
といいましても、現在は四代目の前田重兵衛氏でして、伝記の発行人は先代の社長ではないでしょうか?
こちらの株式会社前田商店の創業はなと慶応元年!
老舗中の老舗であると同時に、善哉屋事件の起きた年と創業年が同じなのですね。
大利鼎吉小伝の中にも「老母お静と妻女おれんは北横町の前田なる家に潜んで一命を全うし、明治時代になつて両女は挨拶に来たが、その後は沓として消息を絶つた。」と善哉屋の家族のその後が書かれていましたが、ここに記された「前田なる家」とはもしかして初代前田重兵衛氏の家だったのでしょうか・・・?

地域の有志が建てて下さったこの碑。

壮絶な事件の現場とは思えないほど様変わりした現在の松屋町筋から、懸命に生きた維新の志士が忘れ去られないよう、私達に語りかけてくれているのですね。
そんな気がしました。



2013年7月3日水曜日

milkhall


大阪難波千日前のお好み焼き「はつせ」はとても有名なのでご存知の方も多いと思います。
その「はつせ」ビルの1階にダーツも楽しめるバー「milkhall」があります。

この度、イタリアンレストランもプラスしてリニューアルオープンされるということでプレオープンにお邪魔致しました。
大阪をこよなく愛する人間として、当然のように私もお好み焼きは大好きです。(こちら2階「はつせ」のお好み焼きは美味しいですよ!オススメです!)
同時に、イタリア料理も大好きでして、お店に入る前から唾液が・・・。
パブロフの犬?とはちょっと違いますね。
こういうのは医学的になんというのでしょうか?
好きと申しましても私の頭の中のイタリア料理はパスタ、ピザ・・・等々、お子様レベルなのですが。

店内はレストランというよりもバーの雰囲気が濃いですね。
黒を基調とした内装にポイントで赤い装飾が施され、とても落ち着いた雰囲気です。

フロアの中心にバーカウンターがあり、それを囲むようにゆったりと客席が配置されていました。
ざっと見た感じ40席くらいでしょうか。
外観から想像していたよりかなり広いなという印象でした。
テーブル席だけでなくBOX席もあるので、ちょっとした仲間内のパーティーなどもこちらなら最適かも知れませんね。


私はお酒がまったく飲めないもので、まずはコーラを頂きます。
もしお酒が飲めるならばせっかくのイタリア料理ですのでワインと楽しみたいのですが。
残念です。

そして、待望のお料理!
まずはオードブルから。
このテリーヌ美味っ!
黒い苦味のあるソースがとても合ってます。
ボリュームのあるので、お腹を空かせてきた甲斐がありました。
お魚は日本でいうところの南蛮漬けですね。
さっぱりしたお酢がさらに食欲をそそります。
オードブルからいきなりアクセル全開で食べてしまいました。

お次はトマトとクリームソースのコロッケ。
丸ごと口に頬張りそして噛むと、中からトマトの香りと酸味が効いたスープが飛び出してきます。
はふはふといいながら食べたのですが、これは初体験の味でした。
不思議な事に食べた後も程よい塩気が口の中に余韻として残るのです。
お菓子と比べたら料理を作られた方に失礼かもしれませんが、子供の頃に美味しいポテトチップスを心ゆくまで食べた後の余韻を思い出しました。
ポテトチップス好きの方にはわかっていただけるかと思います。
口に含んだ時は塩気は感じなかったのに不思議です。
1つで2度楽しめるという感じでしょうか。
どうやって料理したのかとても気になります。

そしてきました!パスタ!

蟹の濃厚な味が絶品です!
トマトソースと蟹の味は喧嘩しないのですね。
そして麺の歯ごたえが自宅で作るものとまったく違う事に感動!
いや、自宅のパスタも美味しいのですが、やはりプロの作る生パスタは私のような素人でも「全然違う」と断言できますね。
トマトの爽やかな酸味と蟹の磯の香りが麺に絡まり口の中でまさに花開くという感じでした。
思い出すとまたヨダレが・・・。

さらにお肉!
牛肉のタリアータというお料理だそうです。
初耳です。
私は写真を撮るのが下手なので、こちらの写真からはわかりづらいですが、ボリュームもありました。

なんと表現すれば良いのでしょうか。
美味い!としか言い様がありません。
ソースの酸味もあり、お肉の甘味もあり、スパイスの香りもあり・・・。
やはり知識がないと美味しさをなかなか表現できませんね。
そしてお肉が柔らかい!
世間的には高級と言われている某ホテルのレストランで食事をする機会が過去にたった1度だけあったのですが、そこで食べたステーキより絶対上だと思います。
あのステーキが最高だと思っていたのですが、さらにその上があるとは・・・。
そして、添えられた茸が明らかに家で食べているものと違うのに思わず笑いそうになりました。
はっきりと香りがするんですよ。茸の香りが。
これがまたお肉と良く合いますね。
milkhall様、本当にご馳走様でした。

最後に、とても美しい盛り付けのデザートもでたのですが、写真を撮るのを忘れておりまして、残念ながら省略させて頂きます。

今回、食事を堪能させて頂いたイタリアンレストランは通りに面した表側で、お店の奥側は以前同様にお酒を楽しみながらダーツで遊べるバーになっています。
今度はダーツにも挑戦してみようかな。

milkhallミルクホールHP
大阪市中央区難波千日前11-25はつせビル1F

2013年5月2日木曜日

大阪市立愛珠幼稚園


大阪市立愛珠幼稚園
先月20日に大阪市立愛珠幼稚園の一般公開があるとのことで行って参りました。
といいましても、子供の入園のためというわけではなく、重要文化財としての愛珠幼稚園の見学でした。
こちらの幼稚園は創立がなんと明治13年(1880年)という歴史ある幼稚園なのです。
現存するこの愛珠幼稚園舎は三代目であり、竣工が明治34年(1901年)です。
しかも、当時の状態とほとんど変わらずに健在であるという貴重なものなのです。
オフィス街の高層ビルに囲まれた風格ある木造和風建築なので、以前からぜひ中を見てみたいと思っていました。
この建物は現在も現役の幼稚園として使用されていますので、こういうご時世ですし、カメラを持って中をうかがうなどできません。
一般公開していただけるのは本当にありがたいです。
しかし、幼稚園長とPTA会長の名前で園内撮影禁止との説明があり、残念ながら中の様子はブログではお見せすることができません。
園児の安全を考慮してという趣旨から考えますと、文字表現であっても内部の間取りを公表するのはまずいかなと色々考えました。
ですので、かなりわかりにくい文章になるかも知れませんが、できる限りこの歴史的建造物の素晴らしさをお伝えしたいと思います。
初代愛珠幼稚園は現在の場所より御堂筋を越えさらに西の今橋5丁目5番地にあったそうです。
豊田文三郎という議員が
「小学校はほとんど全国に普及したが幼児の教育上欠くことのできぬ幼稚園は一、二に過ぎない。当連合町は全国に率先して町立幼稚園を設立し幼児保育の効果を社会一般に知らそう」
と建議したのがきっかけで誕生したのが初代愛珠幼稚園です。
日本全国で幼稚園が1、2しか存在しない時代に、この発想は凄いですね。
初代愛珠幼稚園は戸長役場と民家を修理改造した園舎だったそうで、敷地は376.5㎡ほどだったようです。
東京お茶の水付属幼稚園保母練習科の卒業生を招聘し、かなり好評だったのか創立わずか4年で園児が120名を数え、園舎狭隘のため今橋3丁目(トレードピア淀屋橋の南西)の鴻池善右衛門持家を修理して移転しました。
二代目園舎は敷地が813㎡とかなり広くなりました。
しかし、園舎の構造に問題があり、光線が不足し暗く、冬は寒く、「音響に異常を生ずる等の不便」もあったそうで、運動場はむしろ初代園舎の方が広いといった状況だったそうです。
二代にわたる園舎の不備を正し建築されたのが現在の三代目園舎なのです。
この三代目園舎の原案は、当時の保母が墨画でスケッチしたそうです。
私はここに愛珠幼稚園が明治から現在に至るまで、当時の姿のまま残った理由があるように思います。
現場のプロが原案を作ったわけですから、時代が変わっても園児にとって最適な構造になったのでしょうね。
明治時代といえば、なんとなく堅苦しいイメージがありますが、もしかすると現代以上に柔軟性のある行政がなされていたのではないでしょうか。

井桁と吹寄せの襷格子の門扉
一般公開には多くの見学者が参加されていました。
勝手な印象ですが、どうも重要文化財の見学というよりも、入園を目的とした父兄の見学といった雰囲気の参加者が多かったです。
建物内に入るのに20分くらいは並んだと思います。
おかげで門からじっくり見学できました。
この風格ある門扉は、武家の門に多く用いられた形式だそうです。
向かって右側の通用門は、自動的にしまるように工夫されていたそうで、その時用いられた門開分銅も現存しているそうです。
素晴らしい工夫ですね。
門を入ると整石の敷石が三方に伸び、正面は大寺院を思わせるような堂々とした本玄関に通じています。
その左手の植込みには清水多嘉永志作「植樹の像」があります。

「植樹の像」清水多嘉志作
そして、残念ながら撮影は玄関まで。
玄関から廊下を挟んでメインの遊戯室が見えるのですが、撮影するとまずいかなと思い、玄関の天井まで撮影してデジカメの電源を落としました。
玄関の格天井
外部から見た場合、一番大きな入母屋屋根が遊戯室です。
この遊戯室を写真でお見せできないのが非常に残念です。
言葉ではなかなか素晴らしさを表現できません。
広さは63坪ほどだそうですが、とにかく明るい。
昼間なら照明が不要なのではないでしょうか。
遊戯室の部分は身舎なのですが、西洋の教会のような高窓(クリア・ストーリーというそうです)が三方にあり、ここからの採光が明るさの理由だと思います。
南西北の三面に鉄製の二階式回廊が回っており、支える鉄柱はむき出しのH型鋼です。
メジャーを持っていたので測ってみますと、フランジ幅240mmウェブ高230mmフランジ厚30mmでした。
なにやら刻印されているので必死になって目を凝らして見ると「SEITETSUSHO YAWATA」と陽刻されているではありませんか。
あの官営八幡製鐵所で製造されたH型鋼なのです。
高さのある天井は、玄関と同じく格天井となっていて、和風のアクセントとなっていました。
東側壁面には明治34年から変わらず時を刻み続ける大時計が懸かっています。
本当に、よく戦災に遭わず残ってくれたと感謝したいです。

遊戯室を出て廊下を渡ると摂生室という部屋があり、そこが唯一畳敷きの部屋でした。
摂生室という名前から推察して医務室みたいなものでしょうか?
床の間もあり、医務室のイメージとはかけ離れたものでしたが、ここには「成人在始」と書かれた書が飾られていました。
張賽という清国の人物(後の清国農商部総長)が、愛珠幼稚園に来園し贈った書だそうです。
海外の要人が視察に訪れる先進的な施設だったということですね。

その他にも面白かったのが、トイレが独立した造りになっていたことです。
独立しているので明るく通気が良い。
外側から見るとちょうどこの部分だと思います。

本当に子供のために考え抜かれた設計になっていますね。

運動場は、コの字に回る園舎の廊下に囲まれ、ちょうど中庭のような感じです。
ここにも工夫がされており、運動場とそれを囲む廊下の高さが同じなのです。
バリアフリーですね。
高さが同じという事は、運動場は盛り土ということです。
排水などを考えると、建物の基礎にも相当な工夫がなされていると想像できますね。

司馬遼太郎の「坂の上の雲」の一節に
「明治維新によって日本人は初めて近代的な「国家」というものをもった。誰もが「国民」になった。 不慣れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者として、その新鮮さに昂揚した。 この痛々しいばかりの昂揚が分からなければ、この段階の歴史は分からない。」
とありますが、その昂揚がこの愛珠幼稚園から強烈に感じられた気がしました。

一般公開は年に二度ほどあるそうです。
一般公開時でなくても、この簓子下見板張の高塀の周囲を歩くだけで雰囲気は楽しめると思います。

明治の船場の心意気がしのばれる名建築だと思います。

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